2018年3月3日土曜日

平昌オリンピック「犬食文化 vs 犬愛護者」に見る、東アジア・米国のコミュニケーション観の違いについて 〜言われたら言い返さなければいけない〜

再開一発目は時事ネタなぞ。

先週末、平昌オリンピックが閉会しました。韓国と昼夜が逆転するアメリカですが、毎晩8時(=韓国時間午前10時)からライブ兼ダイジェストが放送され、それなりに楽しめました。

オリンピック期間中は様々な話題・ゴシップが上がっていましたが、閉会式翌日に以下のようなニュースが話題となっていました:

アメリカ代表が「犬工場」の90匹を救出 持ち帰るのはメダルじゃなくて子犬! |ニューズウィーク日本版
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/02/90-10.php

日本の捕鯨、韓国の犬食、こういう文化間の価値観のずれによる衝突は、それを下支えするアドボカシー団体の努力の甲斐もあり、一定頻度で繰り返される。

どちらが正しい云々の話はここではしない。ここで取り上げたいのは、私がこれまでの海外経験を通して学んだ、米国・東アジアにおけるコミュニケーション観・発想法の違いについて。そして欧米社会に暮らす東アジア人として考える、その違いへの対処法だ。

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この手の議論の典型的な展開が:

犬食擁護派(あるいは原理主義的犬愛護懐疑派)「自分たちの価値観を他文化に押し付けるな。インド人(=宗教上牛は神聖)がアメリカに行って厩舎の牛たちを解放したらどう思う?お前たちがやっているのはそれと同等なほど傍若無人だ」
犬愛護派「犬牧場の犬たちがどれだけ非人道的な扱いを受けているか知っているのか?犬は僕たちの友達なのに」
犬食「牛や豚がどのように飼育・屠殺されているか知っているのか?」
愛護「あんなに可愛い犬たちが…」
〜〜以下略〜〜

基本、噛み合っていない。
我々日本人(多分韓国・中国人も)は思う。自分たちも対象は違えど同じような残虐なことをやっていて、よく他文化のことを糾弾できるなと。

しかし、上の赤派と青派の間には決定的な思考法の違いがある。通常我々は何か意見する時、自分自身がそれを発言するに相応しい立場にあるか否かを考える(或いはそうするよう教育を受けている)。自分の理解は本当に正しいか、想定しうる反論は論破できるか、etc…(その結果、多くの場合「やはり発言するのを止めておこう」となり、大学の講義などの質疑は盛り上がらない)

他方、欧米は違う。意見の主張は原則歓迎される。たとえその内容が多少見当違いであっても。大抵の質問に対する回答は「Good question!」から始まる。「そんな質問しおってけしからん!」というのは見たことがない(低レベルな質問は沢山みたけど)。斯様に発言(あるいはそれによる失敗)の敷居が低いから、沢山手が上がる=悠長にしていると発言の機会は得られない=発言できないと何も考えていないとい評価を受けかねない=自分の相応しさなんか考える前に主張をする、という思考回路が作られていくのではないかと考えている。

関本のりえ氏は著書「世界で損ばかりしている日本人」において、東日本大震災の際に被災地の大変さに思いを馳せ、心痛める被災地外の日本人を例に挙げ、「他人の痛み、特に日本人同志の痛みを自分のこととして感じるセンシティビティは世界一」と評している。私もこれは同感だが、逆に言うと世界の他の国の人々は必ずしも我々ほど他人の立場に思いを馳せないということなのだ。



また、人と異なる意見を持つがことが奨励されるのも有名な話だ。先日職場のエレベーターで会ったアメリカ人に「週末のスーパーボール、盛り上がったね」と話題を振ってみたら、「私はフットボールは観ないの」とにべない返事が返ってきた。日本人的には「僕この人に嫌われているのかな」と不安になるが、彼女に他意はない(と信じている)。相手に無理に同調する必要はないし、もし意見の異なる相手に同調してほしいのなら必死に説得する、それがアメリカ式のコミュニケーションだ。

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以上、つらつらと書き連ねてきたが、言いたいのはこういうことだ:

  • アメリカでは東アジアほど意見を主張する際に、自分がそれを主張するに相応しいか顧みるというエクササイズをしないし奨励もされていない(もちろん個人差はありますが)
  • 特に、相手の立場や気持ちに思いを馳せる能力は東アジア人が世界的に見ても特異的に高い
で、東アジア側(この場合は韓国)に提案したいのは、言われっ放しになるのではなく、言われたら言い返すこと。個人レベルでSNSのコメント欄や掲示板で反論するのではなく、相手が影響力の大きいメディア(報道機関、著名人SNSアカウント)で攻撃してきたら、それに匹敵する公式な場で自分たちの正当性(あるいは相手側の過干渉)を主張しなくてはいけない。

上述のとおり、相手側は(非常に深い思慮の上というよりはむしろ)無邪気に自分の価値観を主張・実践していることが多く、こちらがちゃんと相手の主張の欠陥を指摘すると途端にシュンとなることも少なくない。

上述の関本氏も書いているが、アメリカのメディアは偏見に満ちたセンセーショナルな報道をすることも少なくない(今回のNewsweekの記事は辛うじて中立的な立場を保っているが、愛護的な意見ばかりを載せ反対派の意見を載せないという意味では間接的に愛護派を支持している)。それに対し、あくまで中立的な報道を貫く日本のメディアはオトナで素敵だと思うが、国際社会はそこまで理想世界ではない。時には敢えて幼稚になって自己主張することも大切だと、私は思う。

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最後に「動物の扱いが残虐云々〜」の話については、現代社会において家畜屠殺というものが隅に追いやられ、黙殺されているか、適切な食育がなされていないかということの現れのように思う(一応私は農学部出身です)。日々食事をすることは、他の生き物の命をいただいている。生きていく以上、綺麗事だけではすまされない。以下はそれを考える恰好の材料だが、子供に見せると逆にトラウマとなり肉を食べられなくなったりして、悩ましい…
(あと、DVDは映像がかなりショッキング、漫画は性的描写があるので子供に見せる際はご注意を)。








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